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私の人生ストーリー

「世間」「常識」という見えない存在ばかり気にしていませんか?

キャリアや人生の大切な決断を誰かに委ねていませんか?

自分が決める力があることを、本当は信じていないのではないですか?

 

かつての私がそうでした。私の人生は、葛藤の中から突破口を探すことの連続でした。世間や業界の常識、親や兄弟のしがらみから抜け出し、自分の理想世界を目指すために挑戦してきました。そして、「今」があります。

 

 

それでは、私の人生ストーリーです。

 

 

●生かされた「わたし」

 

まずは幼少の頃の話から。

 

私は、商売をやっていた厳格な父と、家事・子育て・仕事に走り回っていた優しい母のもとで育ちました。

 

次男坊でしたので、わがままで自由奔放。兄のお下がりを着たりするのが嫌でとにかく泣き虫でした。あだ名は「泣き虫ヒロちゃん」。

 

小学生の頃に2度、命を救われました。一度目は、小学校2年生の時。兄の後に続いて無理に国道を渡ろうとしたら、軽自動車にはねられました。いっしょにいた兄や友人の話では、映画のように2~3mほど飛んだそう。車が目の前に来たことまでは覚えていますが、その後のことは覚えていません。救急車で運ばれたが、奇跡的にかすり傷程度で済みました。

 

もう一回は小学校3年生の時。友人と川で遊んでいた時に、誤って深みにはまり、何十メートルも流されてしまいました。一緒にいた友人は対岸から走りながら「ひろちゃ~ん!」と叫んでいましたが、私は流れに身を任せるしかなかったのを覚えています。運よくテトラポットにしがみつき、何とか助かりました。

 

当時から、自分は「運がいいな。」って感じていました。亡くなったおじいちゃんが助けてくれたのかなと感じます。そして、今生かされていることに感謝しています。誰かのために何かすることがあるんじゃないかって。

 

 

そんな無茶をする冒険好きな私は、日が暮れるまで、友達と段ボールや容器で秘密基地を作ったり、野球やサッカーに夢中になっていました。道具を工夫して作ったり、自分で新しい遊びを考えたりすることが好きでした。

 

とにかく人から強制されることが嫌だった子供でした。だから、親から塾に行くように言われても、見に行った塾の周りをウロウロして結局帰ってきたことがありました。「自分で決めたい!」「自由でいたい!」っていう感情が強かったのだと思います。

 

 

●要領の良さの限界

 

家では、父と母がよく喧嘩しているのを見たり、学校のクラスで先生が誰かをビンタしたり(今だと問題ですね)するのを見て、父に叱られないように(何か悪さをすると玄関に正座させられた)、先生に叱られないように、いい子ぶるところもありました。要領の良さや空気を読むスキルを身に着けたのは、自分の身を守るための術だったのだと思います。

 

中学校はとても荒れていて、いじめや他校との喧嘩が日常茶飯事でした。私は、不良の先輩や友人ともうまいこと付き合い、そこでも要領の良さが発揮されていました。

 

生徒会の副会長やサッカー部の副キャプテン(これは大学時代まで続く)をやるなど、ナンバー2でいることが好きでした。サッカー漫画の「キャプテン翼」でいうと、岬くんが大好きでした。サポート役、陰で支える存在が自分の性に合っていました。

 

 

高校はサッカーの強い学校を目指すも第一希望校だけ不合格で、結局地元の県立高校へ。私服で自由な校風でした。でも、サッカー部の先生がものすごく恐い人で、試合にも出られずに、逃げるように2年のときに退部してしまいました。結構それは自分の中でトラウマになっています。一人、公園で練習をするなど孤独な時間を過ごすこともありました。表舞台に立てず、もっと日の当たる場所で輝きたいって思いながら悶々としていた時期でした。

 

 

サッカーとは対照的に、学業面では高校までは成績がほぼオール5。持ち前の要領の良さで、要点をまとめたり、暗記することが得意だったので、試験の結果だけは良かったです。大学も指定校推薦で受験勉強せずに進学することができました。でも、考える勉強というよりは覚える勉強ばかりしていたので、大学では全く通用しませんでした。

 

 

大学に入り、今までの学力では全然ついていけないことを知りました。とにかく卒業するために、頭の良い友人からノートを借りたりして、ここでも持ち前の要領の良さを発揮しました(笑)。「井の中の蛙」ではないですが、上には上がいるものだと感じました。受験をしていない自分は、勉強で挫折感というものを初めて覚えました

 

また、今まで出会ったことがない生粋のお坊ちゃま、お嬢さまという人たちがたくさんいて、服装やセンスの良さにコンプレックスを感じていたものです。「他人と比べる自分」がより露わになってきたように思います。

 

 

●プロサッカー選手断念で自暴自棄になった就職

 

高校で燻っていたサッカー熱にまた火がつきました。高校時代までは全然有名ではなかったですが、プロサッカー選手を目指していました。20歳の時にブラジルがサッカー留学に入ったり、アメリカへアポなしでプロテストを受けに行ったりと、とにかくチャンスを求めて、チャレンジをしていました。自分の可能性を信じていた時期でした。

 

でも、結局プロサッカー選手への夢は絶たれ、この時は半ば自暴自棄になっていました。就職活動もうまく行かず、研究室の先生に紹介された中堅の製薬メーカーへ入社。その会社は、非常に厳しく古い組織体質で、大げさに言えば、宗教や軍隊のようなものでした。

 

自分の仕事が終わっても上司が帰るまでは帰ってはいけない雰囲気にすごくいら立ちを感じたのを覚えています。飲み会に行けば、出るのは会社の愚痴や不平不満ばかり。調子を合わせて自分も話に乗っていましたが、「こんなはずじゃない。」「こんな上司のような大人にはなりたくない。」と思っていました。

 

数ヵ月に一度、四畳半の部屋に先輩社員と宿直をするという一風変わった習わしもありました(木刀一本で強盗をやっつけられると思っていたのだろうか)。でも、社内の警備を終えて、夜中静まり返った中、先輩社員と一杯お酒を酌み交わしながら会社の未来や家族の話を聞いた時間は貴重でした。仕事では厳しい先輩社員の人間的な一面を垣間見ることが出来たからです。

 

 

非常に厳しい職場環境、上下関係の会社でしたので、「どんな会社でもやっていける」という変な自信はつきました。社会人として、大人として生きていくということは、学生時代と違って、責任と覚悟が必要なんだと学びました。

 

 

●自分らしさを取り戻したアメリカ留学

 

就職して3年が経った頃、「このまま10年働いて、課長や部長を目指すことが自分にとって本当にやりたいことなのだろうか?」と思うようになりました。自分の知らない世界をもっと見てみたい、自分の視野をもっと広げたいと強く思うようになりました。

 

そして、アメリカ留学することを決断しました。それが私の価値観を大きく変えた最初の出来事でした。家族や友人からは反対も応援もありましたが、結局、「今、自分がしたいことをする!」という想いが、行動を加速させて行ったのだと思います。

 

丸二年でのアメリカ生活では、本当に多くのことを得ました。いろんな価値観を持った人がいることを実感し、環境適応能力が身につきました。

 

 

最初に寮に入った日の事は今でも覚えています。 

 

ルームメイトがアメフト部の巨漢で内心とても焦りました(汗)。その彼がシングルベッドから斜めに寝て、足をはみ出しているんですよ!早口の英語であまり聞き取れず、私は引きつった笑みを浮かべていました。彼の彼女が頻繁に部屋に来て、私の前にイチャイチャしていましたが、つたない英語の日本人の私にも優しくしてくれました。

 

留学生にはお金持ちも結構いて、台湾人の友達が乗っていた車が盗まれたり、日本人の友人が差別的な発言を受けたりしたことも何度かありました。 

 

国籍、肌の色、言葉、文化などが違う人たちが共存する世界には、自由もあり、差別もありました。

 

クラスでは日本人が私一人でしたので、クラスメイトから

 

「トヨタのカイゼンについて教えてほしい。」

「日本人はどうしてあんなに長時間働いているんだ?」

 

など日本や日本人に関する質問を良く受けましたが、自信を持って答えられない自分にもどかしさを感じました。

 

日本を出てみてはじめて、日本のこと、日本人のこと、そして自分のことをもっと知りたいと思うようになりました。アメリカで2年間生活してみて、多様な価値観を受け入れる経験をし、自分が今まで生きてきた世界はとても狭いものだと気づきました。

 

向こうの学生は、奨学金をもらって寮生活をしている人が多く、経済的にも精神的に自立している印象を受けました。片や日本人を含めた留学生は、親の援助で留学している人も多かったです。留学生同士でいつもつるんでいる人たちを見て、何のためにアメリカに来ているんだろうと思っていました。

 

そして、日本は組織や和を重んじますが、アメリカでは個人があっての組織であり、一人一人が自立と責任をもって生きている人が多いように感じました。多様な価値観の中で共存していくためには、一人一人が自立をしたうえで自由を享受している印象です。

 

自分が生きていくためには、自分の主張をする。それは相手の意見を排除するものではなく、双方の考えの違いを認めた上で、今後の方向性を探っていくこと。何か人と違う意見を言うとさざ波が立つので、みんなと同調するか、何も口を開かない日本の社会とは大きく違うものでした。

 

うまく行くかは分からなくても、新しいことを始めることに対する社会の許容性が高いことも肌で感じました。

 

「失敗してもまたやり直せばいい。」

 

そう思える国民性と仕組みがアメリカにはありました。

 

日本は失敗を恐れるあまり全体で協調し、責任の所在が不明確になる文化。世間が決めたルールや常識にとらわれて窮屈な人生を送っている。もっと自分のやりたいことにチャレンジしていいんだ、という思いが少しずつ芽生えてきました。

 

勉強の合間に、アメリカ大陸のいろんな場所にも行きました。30州くらいには行ったと思います。ニューヨーク、南部、西部の街並みは映画で観た世界でした。その中でも、特にヨセミテ国立公園、サンフランシスコ、ニューオリンズは思い出の場所になりました。広大な自然の造形美に心が震えました。

 

大学のサッカー部にも入り、結構活躍しました。当時は勉強、サッカー、遊びを満喫しました。アメリカの環境で自分の可能性が開花した私は、本当に充実して輝いていました。

 

たくさんの思い出がありますが、一番の思い出は私が26歳の誕生日です。留学生仲間がこっそり誕生日会を企画してくれてたくさんの友人たちが祝ってくれました。 

 

夜になると、「ちょっと相談に乗ってほしい」と友人が度々私の部屋のドアをノックしました。「行列のできるヒロさん部屋」なんてと言われていました(笑)。なぜ私に相談に来る人が多かったのか分かりませんが、私が今コーチングをして人の話を聞いているのは、そんなことも影響しているのかもしれません

 

 

●会社は見た目が9割

 

帰国後、MBAを引っ提げて自信満々で就職活動をしました。JICAや国際NGO、外資系コンサルティング会社、メーカーのマーケティング部門、大学の経営企画部門などなど。

 

でも、なかなか決まらない。「なぜ就職できないんだ!」と不安が押し寄せ自信も低下しました。MBAがあれば何とかなると思っていた私のプライドはいとも簡単に打ち砕かれました。

 

最終的には、社長が大学の先輩ということもあり、小さな留学支援機関に就職しました。サークルのような和気あいあいとした雰囲気で、留学経験者や外国人が多く勤めていたので働きやすい会社でした。ただ、業務の効率性を重視する社長と、時間をかけてでも客の声に寄り添いたいという私とで意見がぶつかりました。仕事以外では、人生の友といえる人たちに出会うことができたのは幸運でした

 

4年ほど経ち、「もっと大きな会社で大きな仕事をしたい!」という気持ちがムクムクと湧いてきました。「MBAを取得したのに、なんでこんな小さな会社で働いているんだろう?」「もっとキャリアを高めたい!」「より厳しい環境でチャレンジしたい!」そんな風に思うようになりました。

 

そして、外資系のマーケティング会社へ転職しました。選んだ理由は、業界No.1の会社で世界的に有名だったから。部長が外国人だったり、海外のプロジェクトもあったり、そんな会社で働くことで優越感に浸る自分がいました。3社目にしてようやく自分のプライドを取り戻すことができたのです。

 

未知の分野で最初は苦労しましたが、売上予算を毎年クリアしました。社内勉強会の立ち上げや他部門を巻き込む営業活動が評価され、個人としては異例の2年連続で社長賞を受賞しました。社内のリソースを組み合わせて、顧客のために少しでも良い提案をしたいといつも考えていました。

 

でも、しばらくすると自分を大きく見せている感覚と戦うようになりました。大きな企業と仕事をしている優越感と、自分は大した仕事をしていないという不安が同居していました。

 

クライアントを訪問するのが恐くなり、一人ビルの周りをウロウロしていたこともありました。

 

 

知的インテリへのさらなる憧れとその代償

 

それでも、「さらにキャリアを高めたい!」という欲望がありました。自分の自信のなさを、もっとすごい会社で働くことで払拭したいと思うようになりました。世間的に評価の高い会社で働くことができれば自分は変われる、もっと強くなれる、と信じていました。そして、自分のキャリアの最高峰として、以前から目指していた外資系のコンサルティング会社に転職しました。

 

クライアントも大企業ばかりで、自分たちが関係するプロジェクトがメディアに登場することもありました。そんな仕事にやりがいや、ある種の優越感を感じていました。

 

数百万円~数千万円の高額なフィーをもらってプロジェクトを行う仕事は、とても刺激的でした。仕事の処理速度、アウトプットの品質、どれをとっても今まで働いた会社とは桁違いのものでした。同僚とも、「普通の会社の3倍のスピード感だね。」なんて話をしていました。

 

ただ、上司や同僚には私なんかより優秀な人がごまんといました。思考の深さ、話す言葉の洗練さ、相手の心をつかむプレゼンテーションなどは、異業種から入社した私ではとても追いつくものではありませんでした。自分の実力のなさをさらに痛感することになりました。

 

上司から資料作りを依頼されて、徹夜で仕上げても、やり直しの日々。

 

「自分が考えているのは本に毛が生えた程度のレベルだ」

 

と、落ち込みました。大きな挫折感ともに、「自分は考えられない」ということを思い知らされました。それでも、必死に本を読みあさったり、ビジネススキルセミナーへ参加したりして、知識やスキルを身につけようとしていました。何かに追いかけられるような日々でした。

 

そんな外資コンサルでしたが、どこか納得感が得られない自分がいつも同居していました。

 

それは、会社選択の基準が、企業の知名度や、自分がやりたいことをどこまでさせてくるか、といった自分の外部にある環境によるところが大きく、自分の内部から湧き出てきた確固たる信念や価値観からではなかったからです。

 

また、組織で働く中で派閥問題やつまらない噂、上司への不平不満などを漏らし合うことが、なんだかとても引っかかっていました。

 

「みんなが縛られていること、囚われていることって何なのだろう?」

 

と強く感じるようになりました。

 

ものすごいスピードで働く分、身体や精神には相当のストレスがかかりました。同僚がうつ病になったり、仕事中に胃から血を吐いたりする先輩もいました。そんな風に、ある時は命を削るほど、仕事に魂を込めていました。突然リストラされ会社に来なくなる同僚も見ました。プロジェクトに1年間呼ばれない同僚は、そのまま退職しました。成長のスピードを実感しましたが、健康や人付き合いなど犠牲にするものも多かった時期でした。

 

「効率とスピードを極限まで高め、結果を出し続ける組織」がそこにありました。

 

 

入社して2年ほど経ち、

 

「自分が求めているキャリア、自分がやりたい仕事は本当にこんなものだったのか?」

 

と心の声がささやくようになりました。

 

 

●運命のドイツ駐在

 

そんなジェットコースターのような働き方に疑問を感じていた折、ドイツへ駐在するプロジェクトを命じられました。いつ戻れるか分からない片道切符です(笑)。

 

一部上場企業クライアントのサプライチェーンと組織を世界的に変える大型プロジェクトでしたが、プロジェクトのゴールもふわっとしたもので、私に与えられたミッションは非常に難しいものでした。プロジェクトに選ばれた私を会社の同僚が気遣ってくれましたが、彼らの不安に包まれた顔を今でも忘れられません。

 

 

ドイツに飛び最初の数週間は、プロジェクトの方向性が定まらず(そりゃそうでしょう。ボスは細かいことは詰めずに契約したんだから!)、クライアント企業の役員やドイツ人スタッフとのコミュニケーションを十分とることができませんでした。

 

仕事をしながら、アパート探し、引っ越しなどをしました。電話やインターネットなどの生活インフラのセットアップにも時間がかかりました。ドイツでの生活環境に慣れるのに時間がかかり、孤独で心身ともに疲弊しました。

 

 

それでも、3ヶ月くらい経ってからは、現地での生活も少しずつ楽しむことができました。

 

ドイツに暮らしてみて感じたのは、生活が非常にシンプルだということです。

 

あちらでの週末の過ごし方ですが、家族や友人と公園や川辺でお酒を飲んだり、本を読んでのんびりしたり、カフェやバーで話し込んだりする人をたくさん見ました。

 

日曜日は、デパート以外のお店はほとんどやっていません。一昔前は土曜日もやっていないお店が多かったそうです。スーパーに行けばマイバッグを持っている人がほとんどでした。パン屋でケーキを買ったら、包装がとても質素で中身の商品が壊れそうでした。日本のようにパンを一つ一つビニール袋に入れるなんてことはしません。 

 

地下鉄の照明も必要最低限の明るさでしたし、その他の公共施設も日本のそれと比べるとかなり、暗かったです。電車も時間通り来ないことが度々ありました。

 

私が住んでいたアパートは築100年近くでした。内装や水回りは新しくしていましたが、建物はそのままです。シャワーの水の出が悪かったり、エレベーターが使えなかったりすることも度々ありました。

 

そんなドイツの人たちは、モノをとても大事に使います。街の景観も古いものが多く残っていて、とても素敵でした。またリサイクルの考えと仕組みが社会に浸透していました。

 

多くの人が自転車通勤をします。自転車は、頑丈で少し高価なので、みんな自分でメンテナンスして何年も使います。数千円で買えるからと放置しておくようなことはしません。

 

こんな風に「少しだけ不便な生活を許容するライフスタイル」が私の人生観をガラッと変えました

 

 

●ドイツに理想の働き方があった

 

ライフスタイル以外で、日本とドイツの違いを意識したのは、働き方についてです。 

 

彼らは金曜日になると15時くらいには、週末に家族でキャンプへ行くからとか、恋人と旅行に行くからといってそそくさと帰っていくことが結構ありました。

 

ドイツは、「契約」と「権利」の社会です。

 

有給休暇も2週間~3週間まとまってとるのが当たり前です。祝日と合わせると8週間くらい休みます。また、労働時間も日本と比べるととても短いです。管理職以外は1日に10時間以上働いてはいけないと、法律で厳しく規定されています。契約で決められたことはきっちりやるが、それ以外はやらない、というのが雇用する側も雇用される側にも共通認識としてあるんです。

 

 

一方、日本はどうでしょう?

 

私はドイツにいた時も、平日週末関係なく、夜遅くまで働いていましたし、クライアント企業も日本人役員は休み返上で働いていました。そんな状況を見て、ドイツ人のような働き方をするにはどうしたらいいのだとうかと、真剣に考えるようになりました。

 

これからもコンサルとしてピラミッド社会の生き残り競争で戦うことは考えませんでした。部署のボスから他社へ移るので一緒に来ないかと誘われましたが、組織の論理に縛られる人生から抜け出したかったのです。

 

「少し不便でも今あるモノ活かし、コミュニケーションを大切にするライフスタイル」

「組織に縛られる働き方ではなく、自分次第で柔軟に変化・成長できる働き方」

 

そして、「自由と成長を両立させること」が私の求める理想的な働き方だということに辿り着いたのです。

 

 

●家業への転身と過去キャリアの崩壊

 

外資系コンサルまで上り詰め、外的キャリアをたっぷりと満たした私は、企業名や仕事内容よりも、自分が望む人生に近づける働き方を模索しました。

 

組織の論理や世間の常識・観念に縛られない自由、健康的でシンプルな生活、人生の目標実現に向けて成長できる働き方を手に入れるには何をすべきか、考えました。

 

仕事、健康、お金、人間関係、時間、趣味の優先すべきことを考えました。

 

そして、私が出した結論は、家業を継ぎながら自分がやりたいビジネスも両立させることでした。90年以上続く家業(製紙原料古紙のリサイクル会社)の3代目として働くことを決めました。兄がずいぶん前から会社に戻っていたので、父、兄、私の3人で会社を経営することになりました。

 

周囲からは、

 

「もったいない。なんで外資系コンサルから家業なんかに戻るの?」

「家族経営、兄弟経営は大変そうだねー。」

「だいたい2代目、3代目は失敗するんだよ。」

 

そんな声も聞きました。

 

 

サラリーマン時代のキャリアを捨てゼロからのスタートでしたが、想像以上に大変な日々が待っていました。

 

今までのビジネス経験を活かして新しい取り組みを導入しようにも、業界的に古く閉鎖的な会社でしたので、「とりあえずやってみよう」という前に、父や兄にすぐに否定されました。私が何かを提案しても、

 

「それは無理だ。」

「お前の言っていることは難しすぎる。」

「考えが甘い。」

 

そんな言葉ばかり浴びせられました。まるで自分のことを否定されているようでした。

 

ワンマンで支配的な父と、父に押さえつけられてきた兄とは、しょっちゅう言い合いになりました。まともにコミュニケーションができないことが本当にストレスでした。

 

会社の目標や社員の評価もすべてブラックボックスで、社長の一存で決めていたことは、私が今まで生きてきたビジネスの世界では考えられないものでした。社員の意見を尊重するという考え方も当時の会社にはありませんでした。

 

「会社のことを考えてやっているのに、なぜ分からないんだっ!」と車の中で一人泣いたり、酒を飲んで気を紛らわしたりしたこともありました。

 

また「リサイクル」といっても、「ごみ」「産業廃棄物」と同じ風に見られ、世間からはあまりいいイメージを持たれていませんでした。そんな世間の目を私も非常に気にしていて、「MBAまで取ってきたのに、本当はこんな業界でこんな仕事でしたくない!」と思う日々でした。

 

私が、今まで培ってきたサラリーマン時代の実績やプライドが崩れ、自己肯定感も下がりました。

 

 

 

●コーチングとの出会い

 

その頃、私が今までやってきた経営コンサルティングに何か限界を感じていました。

 

経営者は、目に見える変化を求めますが、それが時に行き過ぎた成果主義に向かわせ、結果が出なければまた新しい方法論を探し始める。ブランドを変え、商品を変え、組織体制を変え、売り方を変える。そんな近視眼的な経営に陥る企業をたくさん見てきました。

 

そして、新しい取り組みをまわすための仕組みづくりのほうにばかり目が行き、経営者やリーダーの物事に対する見方や心構えについて十分なサポートが出来ていないことに気づいたのです。ポイントは、「仕組み」をまわす「ヒト」へのケア。これこそが、組織の持続的な成長につながるのだと確信したのです。

 

 

そんな時にコーチングに出会いました。

 

コーチングを学び、私自身にもプロコーチをつけました。コーチとのセッションを通して、自分には人とは違う素晴らしい個性があることを知りました。人生の大きなテーマを見つけ、日々成長することに楽しさを覚えることができるようになりました。

 

やりたいことを見つけ、そのために行動を加速させ習慣化していく中で、自分と向き合う時間も増え、以前よりも自分のことを認めることができるようになったのです。

 

 

そうすると私のことを応援してくれる人やクライアントも自然と増えていきました。今まで囚われていた世間の目や「こうしなければいけない」という思い込みを手放すことができたのです。

 

コーチングを学び、相手を自分と同じ考え方や気持ちにさせようとするのではなく、お互いの考え方や気持ちが違うことを認めた上で、お互いが満足できる方法を探していく。より前向きで行動にフォーカスする方法を模索していくことが大切だと知りました。

 

「自分が今できること」に意識と行動を集中し、家業のブランディングやマーケティングにコツコツと力を注いできました。職場環境の改善にも積極的に取り組みました。社員との1 on1ミーティングや不定期の飲み会も新たに開催しました。

 

そんなことを繰り返していくうちに、社員の発する言葉も、会社への不平不満から「もっとこんなことをしてみたい。」「以前と比べて本当に働きやすくなった。」という声が増えました。

 

会社の売上も5年間で1.5倍になり、社員の給与も毎年増えました。賞与も年3回出せるようになりました。正社員率は90%を超えました。休日も増えました。

 

 

私が入社した当時は、給与や休日の改善を父兄に訴えても、

 

「他にもっとひどい会社がある。」

「お前は大企業での理想ばかり言っている。甘い。」

 

と否定され続けていましたが、時間をかけて変わってきました。少しずつですが、父兄も私の行動を見て、私の考えを理解してくれるようになりました。

 

 

コーチングを学んだことで、物事を見る視点が大きく変わっていきました

 

中小企業には、大企業にはないアットホーム感があり、工夫とやり方次第で他社と差別化できる余地が大きいことにも気づきました。

 

ビジネスと家族との境界線があいまいなところがファミリービジネスの強みにも弱みにもなります。家族なので、時には情に流されて冷静な判断が出来ないことや、お互いの意思疎通が十分できないこともあります。それでも数年の月日が経ち、お互いの個性を認め合い、得意分野を活かしていけば、今までにない力が出ることも経験しました。また、時には、「家族であっても別々の人生がある」と割り切る心、つまり、自分と他人との心の境界線をしっかり引くことが大切だと学んだのです。

 

 

また、企業に雇われる側から、社員を雇う側になって、社員の雇用を守ること、社員の家族の生活を守ること、利益やサービスを社会に還元すること、企業を持続的に成長させることを真剣に考えるようになりました。

 

サラリーマン時代は、組織も部門化・専門化され、仕事があるのは当たり前、給料がもらえるのは当たり前でした。自分の成果に対する評価に意識が集中し、評価が過小であれば、上司や会社に対して不平不満を持っていたこともありました。 それが今は立場が逆転し、社員の気持ちもよく分かるようになりました。

 

経営側と社員とでは、立場と役割が違うので、経営や給料に対する考え方も一致することはありませんが、会社の業績と価値を伸ばし、社員に働きがいを持ってもらい、一人ひとりが少しでも前向きに、豊かな人生を送ることが出来ることにつながるために、自分に何ができるかを考えるようになりました。

 

「個人と組織の成長の最大化」が私の重要なテーマとなっていったのです。

 

 

●自分の生き方を決めていい

 

私はずっと信じていました。自分を成長させてくれる、自分を幸せにしてくれる「何か」があると。転職を繰り返し、家業に転身し、自己啓発に没頭してきました。

 

自信がない自分が嫌で嫌で、自分で決めることから逃げてきたのです。自分の幸せの決め方を他人に委ねてきたのです。

 

「誰かに答えを委ねれば楽だから。」

「責任をとるのが怖いから。」

 

 

でも、ようやく分かったのです。

 

「自分の人生は自分で決めるしかない。」ということを。

 

私自身、世間や会社が決める「観念」や「常識」に縛られ、自分を賢く、大きく見せることもありました。

 

「自分から自分が離れていく」

 

そんな感覚がありました。

 

そして、

 

「何を拠り所に働くのか。」

 

その答えをずっと探していました。自己否定をし、絶望も味わい、とても長い道のりでした。

 

でも、

 

いろんな場所へ行き、

いろんな人に助けられ、

いろんな経験をしてきて、

 

ようやく答らしいものが見えてきました。

 

それは、

 

「過去の自分を超え続けることと、自由と成長を追い求めること」です。

 

そのためには世間の常識、自分の常識を疑い、物事の見方を変え、行動していくことです。

 

 

今は、サラリーマン時代のように上司に指示されることはありません。仕事も自分で考えて、つくっていかなければいけません。ですので、タイムマネジメントとセルフコントロールが強く求められます。自分の決断と行動に責任を求められます。

 

一方で、残業もほとんどないので、仕事後の時間を有意義に使うことができます。家業と並行してコーチングやワークショップの仕事もしています。好きな読書や運動をする機会も増えました。一日の中でオンとオフを切り替えることができるようになりました。

 

  • 時間とお金を自分でコントロールできる。
  • 世間の常識や家族の束縛から自由になる。
  • 自分で社会に貢献する仕事をつくる。
  • 自分と向き合う時間が増え、人生をより主体的に生きる。

こんなことを実現してきました。

 

 

あなたもいっしょにあなたの目指す働き方・生き方を実現しませんか?

 

組織や他人に委ねて、その対価をもらいながら生きていくか、行動や結果の責任を全て負いながら、自分らしい人生を送るか、それを決めるのも私たちの自由です。

 

 

●あなたの可能性に気づくだけ

 

もしあなたが、以下のどれかにあてはまるのであれば、私にできることがあります。多くは過去の自分が経験したことでもあります。

 

  親や世間の常識に縛られている。

  周囲の環境に流されている。

  誰かの評価や期待に応えようとしてきた。

  幸せになるための答えを誰かに委ねている。

  一人で何とかしようとしてしまう。

  できることを集めたけどやりたいことが分からない。

  自己啓発に夢中になったが、満たされない。

  誰かが自分の人生を用意してくれると思っている。

  転職や起業を考えているが行動できない。

 

 

私は、今までに500人以上の方の相談に乗ってきました。クライアントの皆さんも紆余曲折を経て、本当にユニークなキャリアを実現しています。

 

例えば、こんな人たちを見てきました。

 

30代女性:省庁勤務→北欧留学→シェアハウスの管理人とウェブメディア記者

 

30代男性:アメリカ留学→土壌科学の仕事を断念→河川や魚の保護を通して漁業問題の解決に取り組む

 

30代男性:国際協力の仕事を断念→看護師→実家の有機栽培の自然農園を継ぐ

 

30代女性:アメリカの大学院でアスレチックトレーニングを勉強→帰国後、個人向けパーソナルトレーナーとして健康増進に関わる

 

30代女性:外資系コンサル→製薬メーカーでマーケティング→自動車メーカーでデータサイエンティスト→転職を考えたが管理職を目指すことを決意

 

30代女性:製薬会社→結婚・子育て→英語教材の編集

 

40代男性:製薬会社→社会保険労務士として独立

 

40代男性:コンピューター関連企業→外資系コンサルティング会社→マーケティング会社→ITベンダー

 

40代女性:看護師→「リハ栄養」をテーマとして訪問看護ステーションを開業

 

40代男性:国際関係の仕事を目指すも断念→バイトの日々→出版会社で人権やジェンダー問題に関わる→社長に就任

 

40代女性:大学卒業後に日系企業に就職→フィリピンでNGO設立

 

 

こう見ると、誰一つとして同じ「キャリア」はないんですね。

 

あなたが何かコンプレックスを抱えて悩んでいるとしたら、そんなのは誰かに押しつけられた幻想です。あなたが人生を生かすために必要な能力は、すでにあなたに備わっています。あとは知るか知らないか、やるかやらないかの違いだけです。

 

矛盾する価値観や葛藤の中にあなたの成長の源泉があるのです。人生を戦いの場ではなく、創造の機会としてとらえていきましょう。

 

物事の見方が変われば、人生も変わっていくのです。

 

 

●可能性に挑戦するチャンスは何度もある

 

今の時代は、何となく生きていけてしまう環境や誘惑が溢れています。

 

他人の揚げ足をとり、

他人の成功を妬み、

自分の人生を悲観する。

 

全力で生きている人を羨ましがり、

自分にはできないとあきらめる。

 

そんな空気が世の中に流れているように思います。

 

「自分は何のために生きているのか、生かされているのか?」

 

を真面目に考え、行動することが敬遠されている世の中。

 

それでも、ほんの一握りの人は、人生やキャリアの目標実現に向けて、

 

愚直にやりきる。

愚直に考え抜く。

愚直に売り切る。

 

ことをして、自分の本当に望むものを手に入れています。

 

それには痛みを伴い、絶望を味わいますが、そうしないと「向こう側」の世界には到達できません。

 

私は、仕事や人生の選択に迷った人たちがふらっと立ち寄り、エネルギーを補給し、また新しい目標に向かって旅立つ「港」のような存在になりたい。人は、目的と道筋が見えると、行動しやすくなります。私は、その手助けをしたいのです。

 

そのために、私は常に人との出会いや経験を学びと成長の機会ととらえ、新たに得たリソースを困っている人のために再活用していきます。

 

私は、信じています。

 

自分の目標や夢に向かって想いを語り、

人生を切り拓くために行動する人が増えれば、

そして、そんな勇気ある人をやさしく応援する人が増えれば、

世の中はもっとあたたかいものになるはずだということを。

 

もし、あなたが自分の働き方や生き方に疑問を感じているとしたら、今があなたの可能性に挑戦するチャンスです。

 

ヘレン・ケラーの言葉を借りれば、

 

 「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」

 

 

迷ったら、勇気のいる方を選択してみませんか?そして、あなたが歩む道のりを面白がりましょう。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

お会いできるのを楽しみにしています。